山折哲雄お祭りです、鎮魂のお祭りです、復興のお祭りです。

天の声を聴く、天地の響きに耳を澄ます。山海の奏でる自然の音に全身をさらす。草木や花々の上をわたる風のささやきに、わがこころをゆだねる。

そして、われわれひとりひとりが、独りで立つ。

いま、この東北の地に、その濃密な時が訪れようとしています。

 

お祭りです、鎮魂のお祭りです、復興のお祭りです。

踊り上がって大空に跳ぶ、ふたつの眼(まなこ)を見開いて宙に舞う、雄叫びをあげて大地を疾走する。

いま、このいわて三陸の地に溌溂たる季節が訪れようとしているのです。

鎮魂とは、死者たちの魂への祈り、生きている者たちの魂への精一杯の励ましではありませんか。いまわれわれは、このいわて三陸の宮古の浄土ヶ浜に集い、新しくご先祖となったひとびととともに、復興のためのいのちの対話をはじめようとしているのです。

神楽の舞で、太鼓を叩こう。さんさ踊り、鹿踊り、そして虎舞い、剣舞いで、踊りと舞いの輪を広げよう。地の底から湧きあがる声明の大音響に身をゆだねよう。

 

お祭りです、鎮魂のお祭りです、復興のお祭りです。

名勝、浄土ヶ浜で、にっぽんのこころをむすぶ、東北芸能の精華を示すお祭りです。

 

幸せ出ずる国いわて実行委員会

企画委員長 山折 哲雄

 

三陸被災地を舞台にした、はじめての復興祭

 

東日本大震災で未曾有の被害を受けた岩手県三陸地方。
震災から3年を経た今も、未だ多くの人々が仮設住宅などの生活を余儀なくされています。
ここには、巡行の形態を持つ神楽を始め、虎舞、鹿踊り、念仏剣舞など
多様な祭りや芸能が継承され、人々の心の絆を結んできました。

 

「いわて三陸鎮魂復興祭」は、
震災以来、三陸に暮らす人々の心の支えとなってきた祭りや伝統芸能を
復興の主要資源として着目し、
被災地である三陸の人々自らが主役となって、
スケールある復興への取組みを長期的展望で展開していくものです。

 

三陸のシンボルとなる名勝・浄土ヶ浜を舞台に、
地域の祭りや芸能を一堂にしたフェスティバルを核に、いわて三陸の自然と文化、
そこに暮らす人々の心の輝きを全国に発信していきます。

 

 

 

幸せ出ずる国いわて実行委員会

 

■実行委員会

(委員長)

三隅治雄(文学博士、芸能学会会長、東京文化財研究所名誉研究員)

(委 員)

山本正徳(宮古市長)

橋本裕之(岩手県文化財保護審議会委員、追手門学院大学特別教授)

佐々木一成(岩手県教育委員会事務局生涯学習文化課文化財課長)

岩渕謙悦(岩手県商工労働観光部観光課総括課長)

福澤淳一(財団法人岩手県観光協会専務理事)

古水力(大船渡市郷土芸能協会副会長、浦浜念仏剣舞保存会会長)

西舘政美(岩手日報社事業局次長)

有川雄二郎(幸せ出ずる国いわて実行委員会事務局長、株式会社SAP代表取締役)

 

■企画委員会

(委員長)

山折哲雄(国際日本文化研究センター名誉教授)

(委 員)

林省吾(市町村アカデミー学長、元総務省事務次官)

赤坂憲雄(学習院大学教授)

小島美子(国立歴史民俗博物館名誉教授)

仲道郁代(ピアニスト)

有川雄二郎(幸せ出ずる国いわて実行委員会事務局長、株式会社SAP代表取締役)

 

実行委員会事務局……株式会社SAP

 

いわて三陸鎮魂復興祭 〜三陸でむすぶ、にっぽんのこころ〜

 

第1日 9月28日(土) 響け、三陸の魂

開場11時30分、開演12時00分

 

第1部 三陸の祭りと芸能競演 

【出演】

うごく七夕祭り中央組合(陸前高田市)

久慈備前太鼓(久慈市)

桜舞太鼓(釜石市)

ふだい荒磯太鼓(普代村)

山口太鼓(宮古市)

黒森神楽(宮古市)

中野七頭舞 (岩泉町)

○京都・醍醐寺の聲明

 

第2部 にっぽんの心をうたうスペシャルコンサート

【出演】

錦織 健、島谷ひとみ

■会場 : 宮古市・奥浄土ヶ浜特設会場

■主催 : 宮古市

■後援 : 幸せ出ずる国いわて実行委員会、産経新聞社

■協賛 : フォーディズ株式会社

■料金 : 無料(事前公募により整理券発行)

 

 

 

 

第2日 9月29日(日) 舞え、にっぽんの心

開場11時00分、開演16時30分

 

第1部 三陸の祭りと芸能競演

【出演】

浦浜念仏剣舞(大船渡市)

菅窪鹿踊(田野畑村)

野田流し踊り(野田村)

津軽石さんさ踊り(宮古市)

角浜駒踊り(洋野町)

大澤大神楽 (山田町)

大槌城山虎舞(大槌町)

 

第2部 錦秋特別公演 芯2013

【出演】

中村勘九郎、中村七之助、高橋竹童、TAO

■会場 : 宮古市・奥浄土ヶ浜特設会場

■主催 : 幸せ出ずる国いわて実行委員会

■共催 : 宮古市、宮古市教育委員会

■料金 : 無料(事前公募により整理券発行)

 

 

 

 

いわて三陸鎮魂復興祭を終えて

生きられる浄土―岩手県沿岸部の郷土芸能、浄土ヶ浜に集う。―

 

橋本裕之2011年3月11日から約3年が経過した。甚大な被害を受けた岩手県沿岸部において、今日でも数多くの郷土芸能が演じられている。それは岩手県沿岸部の人々が郷土芸能を生きがいや喜びとして享受してきた事情に由来しているが、とりわけ東日本大震災以降、郷土芸能は鎮魂を司り復興を祈る、いわば精神的な支柱として演じられてきた。郷土芸能は地域社会に入った深く鋭い亀裂を縫い合わせて、傷ついた地域社会を再生させる契機としてこそ演じられているのである。

先日、海上から浄土ヶ浜を眺める機会に恵まれた。浄土ヶ浜はこの世の浄土かと見紛うばかりの美しさを取り戻している。だが、普段は陸地から眺めている浄土ヶ浜を海上から眺める経験は、奇妙な感覚をもたらした。自分自身が浄土の側に身を置いている感覚、浄土を生きている感覚に襲われた、とでもいえばいいだろうか。

2013年9月28、29日の2日間、その浄土ヶ浜において「いわて三陸鎮魂復興祭~三陸でむすぶ、にっぽんのこころ~」が催されて、岩手県沿岸部の全市町村から多種多様な郷土芸能が集った。鎮魂の祈りを捧げて復興の息吹を伝えるべく、この世の浄土に降り立った郷土芸能は12の市町村から14団体。浄土ヶ浜を擁する地元の宮古市から3団体、そして北は洋野町から南は陸前高田市まで1団体ずつが出演した。

第1日は「響け、三陸の魂」と題して、和太鼓の団体が次々登場した。うごく七夕まつりの未来を担う若者たちの演奏によって開幕、5団体が伝統と創造のグラデーションを叩き出す。そして地元の宮古市に拠点を置く山口太鼓に導かれて、やはり宮古市に拠点を置く国指定重要無形民俗文化財の黒森神楽が呼び出される。しかも黒森神楽に発祥した中野七頭舞がその勇姿を披露することによって、会場は早くも第2日の予感が立ち込めた。

第2日は「舞え、にっぽんの心」と題して、岩手県沿岸部に分布する多種多様な郷土芸能が競演した。死者を供養する浦浜念仏剣舞と菅窪鹿踊に導かれて、生者にとって祈りの表現であり喜びの発露でもあるパフォーマンスが浄土ヶ浜の特設舞台を飾る。そして大澤大神楽の子供たちが確信させる鎮魂の祈り、城山虎舞の青年たちが爆発させる復興の息吹。最後に登場した城山虎舞は、新調した山車を浄土ヶ浜に運び込む離れ業を披露した。いわて三陸鎮魂復興祭は文字どおり演じられる浄土、生きられる浄土であったといえるだろう。

 

幸せ出ずる国いわて実行委員会委員・追手門学院大学地域文化創造機構特別教授・岩手県文化財保護審議会委員

橋本裕之

 

9月28日(土) 出演団体紹介

 

①うごく七夕まつり中央祭組(陸前高田市)動画を見る

うごく七夕まつり中央祭組陸前高田市高田町に伝わるうごく七夕まつりは、山車にさまざまな七夕飾りを施して、お囃子を奏でながら町内を練り歩くものである。先祖を供養する行事として伝わり、12の地区が意匠を凝らした山車を出していた。東日本大震災によって甚大な被害を受けたが、今年は12台の山車が復活して、鎮魂と復興を祈った。

中央祭組は昭和50年に中央町内会を母体として結成されたが、町内会の3分の1に相当する121名がなくなった。一切が流出して、かろうじて山車の土台部分と大太鼓だけが残った。「町内会会員が、1年に1度、祭りの準備期間中や祭り当日に集まり、震災前を懐かしみ、励ましあいながら笑いあえること、また将来ある子供たちに祭組の歴史と伝統を継承していくために祭の開催と運営を行うことで、震災前のコミュニティを継続・再構築すること」をめざしている。

 

②久慈備前太鼓(久慈市)動画を見る

久慈備前太鼓平成元年に会長の瀬野勝男氏が設立した。戦国末期の武将であった久慈備前守直治にちなみ、久慈備前太鼓と名付けた。岩手県北部や青森県南部に伝わる盆踊りであるナニャドヤラを伝承している。ナニャトヤラの演目は「一つ甚句」「二つ甚句」「三つ甚句」「四つ甚句」「どんかしょ」「よこはま」「十二あし」「はやおどり」の8曲である。

一方、創作和太鼓にも取り組み、ナニャドヤラのリズムを取り入れた特徴的な演目である「南部ばやし」、久慈の背景をイメージして振り付けて駒踊のリズムを取り入れた「備前ばやし」などの4曲を作り、各地で演奏してきた。だが、東日本大震災に伴う大津波によって、練習の拠点としていた倉庫は全壊、太鼓などの用具一切が流失した。各種の支援を受けて用具を整備したが、依然として練習場が見つかっていないので、十分な活動ができない状況に置かれている。

 

③桜舞太鼓(釜石市)動画を見る

桜舞太鼓唐丹町で3年に1度開催される天照御祖神社の式典大祭は、釜石さくらまつりとも呼ばれており、大名行列のみならず神楽、虎舞、手踊りも桜並木の下を練り歩くことによって知られている。

桜舞太鼓は昭和28年に釜石さくらまつりにおける本郷地区の手踊り太鼓として発足して、本郷地区の青年たちによって伝承されてきた。現在は平成12年に結成された鼓舞櫻会が桜舞流舞打ちを伝承する活動に並行して、創作和太鼓を演奏する活動を手がけており、各種のイベントにも積極的に参加している。地域の伝統に根ざしながらも、常に新たな脱皮をめざす実力派太鼓集団である。平成23年3月、東日本大震災に伴う大津波によってメンバー1名を失い、一切が呑み込まれる被害に遭いながらも、各種の支援を受けて早くも同年7月に活動を再開した。

 

④ふだい荒磯太鼓(普代村)動画を見る

ふだい荒磯太鼓平成5年に普代村に新しい文化を創造しようという行政の呼びかけに応じて結成されて、和太鼓集団の舞太鼓あすか組を主宰する飛鳥大五郎氏の指導を受けて約20名のメンバーで始動、今年20周年を迎えた。普代村の内外で創作和太鼓の演奏を披露している。

レパートリーは7曲、会員数は14名。10月12日に普代村の社会体育館で、普代村郷土芸能記念事業ふだい荒磯太鼓20周年記念公演「天にこだまし地に響け」が開催される。舞太鼓あすか組を迎えたジョイントコンサートであり、岩手県指定無形民俗文化財の鵜鳥神楽(普代村)も友情出演する。「自分たちが好きでやっている和太鼓で、誰かを元気にしたり、笑顔に出来たら、そして、自分たちの好きでやっていることが、やがて文化になり芸能の域にまで達することが出来れば、それに勝る喜びはありません。」という。

 

⑤山口太鼓動画を見る

山口太鼓昭和47年、当時地域の青年会活動が低迷していた中、太鼓を中心とした地域活動を目指し、現会長の佐々木清が多くの作曲を手がけ、太鼓が好きな者達が集まり、今日まで41年間活動を続けてきた。

当初は太鼓もなく、イベントに参加する際も各地の神社等より太鼓を借用していたが、地域の方々をはじめ宮古市民ならびに行政等の支援を得て自前の太鼓も揃い活動の環境が整った。さらに姫神(故星吉昭氏)との出会いにより、テレビ出演や国内・海外でのコンサート共演等の機会にも惠まれ、その活動は飛躍的に増加し広く内外に知られるようになった。結成以来、地域の祭りへの参加はもとより、老人ホームの慰問や小中学生への太鼓指導、全国での公演などその活動の輪が広がっており、太鼓の響きを末永く伝えられるように後継者の育成等に力を入れ、市民に愛される太鼓になるべく努力を続けている。

 

⑥黒森神楽動画を見る

黒森神楽宮古市街北側にある黒森山は、古くから海を航海する漁業者の目印ともなったことから、陸中沿岸の漁業・交易を守護する山として広く信仰を集めてきた。

黒森神楽は、正月になると黒森神社の神霊を移した「権現様」(獅子頭)を携えて、陸中沿岸の集落を廻り、家々の庭先で権現舞を舞って悪魔祓いや火伏せの祈祷を行う。夜は宿となった民家の座敷に神楽幕を張り夜神楽を演じて、五穀豊穣・大漁成就や天下泰平などの祈祷の舞によって人々を楽しませ祝福をもたらしている。この巡行は旧盛岡藩の沿岸部を、宮古市山口から久慈市まで北上する「北廻り」と釜石市まで南下する「南廻り」に隔年で廻村し、近世初期からその範囲は変わっていない。こうした巡行を行う神楽は、全国的にも類例がなく、貴重な習俗が現在も継続されていることから、平成18年に国の重要無形民俗文化財に指定された。

 

⑦中野七頭舞(岩泉町)動画を見る

中野七頭舞岩泉町小本地区に伝わる郷土芸能で、130年前の天保年間に神楽太夫の工藤喜太郎氏が考案した。沿岸部を巡行する神楽が各集落の神楽宿に舞い込む際に演じるシットギジシという演目を発展させたものである。

2名1組の7組、合計14名によって、「先打ち」「谷地払い」「薙刀」「太刀」「杵」「小鳥」「ササラスリ」という7つの道具を用いて演じる。これが七頭舞の語源であるという。勇壮活発な内容であるため、開拓の踊りともいわれる。小本小学校での伝承活動のみならず、全国各地の団体とも積極的に交流しており、現在は東京や札幌などでも演じられている。中野七頭舞が奉納する白山神社の祭りは、地元の人々に加えて全国各地の七頭舞ファンが集まる。また、岩手県を代表するイベント「北上みちのく芸能まつり」には毎年招待されて30回以上も出演している。

 

9月29日(日) 出演団体紹介

 

①浦浜念仏剣舞(大船渡市)動画を見る

浦浜念仏剣舞浦浜念仏剣舞は、大船渡市三陸町越喜来(おきらい)浦浜地区に江戸中期より継承されている。地元では「けんべ」と呼ばれ、海と山に阻まれた浦浜に生きつづけた民衆の素朴な芸能として踊り継がれて今日に至る。東日本大震災では、装束・道具の全てを流失。大震災から100日目の6月18日、香炉を持ち瓦礫の中を行進。「犠牲者百か日供養」を行い、活動を再開してきた。

念仏踊りなど七演目が伝えられ、毎年8月5日、地元円満寺の施餓鬼法要を踊り初めとし、祖先供養で地域の家々をまわり、縁側に出された位牌を前にして踊る。胴踊り(太鼓)が唄う念仏和讃にのせ、三番叟を被ったささら役が香炉を高く持ち上げ庭をめぐり、踊り手に焼香させる作法、中踊りでの蹲踞、踏み込みの力強さ、頭上の毛ザイを振り乱し阿修羅の如く暴れ狂う豪放磊落(ごうほうらいらく)な気風が浦浜けんべの特徴。岩手県指定無形民俗文化財。

 

②菅窪鹿踊(田野畑村)動画を見る

菅窪鹿踊岩手県沿岸部における郷土芸能の華である鹿踊は、供養のために演じられてきた。菅窪鹿踊もお盆の8月14日に田野畑村の墓地で踊り、先祖を供養する。また、菅窪の雷電神社の例大祭でも奉納される。建久2年(1191)に武蔵国秩父庄から現在の田野畑村大芦に入った畠山一族によってもたらされて、その後、大芦で第一の踊り手であった大工の常五郎が菅窪に伝えたという。

囃子に合わせて身体を被う幕を内側から動かして踊る幕踊りの鹿踊に属しており、8頭で構成される。演目は「ほらがえし」「花笠」「組花踊」「七つぎり」「突き入れ」「膝立て」「四本がかり」「網がかり」「女鹿狂い」「案山子」「足上げ突き入れ」である。昭和8年の大津波に際して、2年かけて被災した村々を回って犠牲者を供養したが、平成23年8月のお盆にも田野畑村の墓地で演じられた。岩手県指定無形民俗文化財。

 

③野田流し踊り(野田村)動画を見る

野田流し踊り野田流し踊り保存会は、「ナニャドヤラ」と呼ばれる現存する日本最古の民謡をはじめとする地域の盆踊りを継承する団体で、平成3年に結成された。かつての盆踊りでは流し踊りはなく、広場で円を描いて踊るだけだったが、鎮守愛宕神社の例祭とあわせ始まった野田祭りで流し踊りが踊られるようになったという。野田祭りは現在、8月第4金・土・日の3日間にわたり開催され、初日と最終日には3基の山車の曳き回しや御輿渡御が、中日には盆踊りの流し踊りが盛大に披露される。

東日本大震災で愛宕神社周辺の地域は大津波の壊滅的な被害を受け、保存会員の家の半数近くが津波に流され、亡くなった会員はもちろん、衣装や道具も流失した。しかし震災以降、郷土の伝統芸能を保存するとともに、村民の郷土意識の高揚と連帯を強め、もって野田村の振興発展に寄与することを願い会員一丸となって継承活動に取り組んでいる。

 

④津軽石さんさ踊り(宮古市)動画を見る

津軽石さんさ踊り津軽石さんさ踊りは、江戸初期に馬で海産物を盛岡などの内陸部に運んでいた行商人によって盛岡近郊から伝えられたとされる。寛政年間(1789~1800)の頃より本格的に踊られるようになり、大正期にますます盛んとなり本格的に踊られるようになった。かつて津軽石本町にもさんさ踊りがあり、それと区別して「津軽石新町さんさ踊り」と称していたが、本町の踊りが消滅して現在は津軽石さんさ踊り保存会が津軽石地区全体に伝承範囲を広げ継承している。

津軽石さんさ踊りは、毎年8月の盆の津軽石稲荷神社例大祭で御輿の御供をした後、家々を回って門打ちをする。太鼓を先頭に笛、踊り手の順に踊りながら進んで輪になり、やがて太鼓も笛も輪に入り踊りながら演奏する。津軽石さんさ踊りは、手足の動きが大きいことが特徴で、南部領独特の盆踊りであるさんさ踊りの古態をいまに継承している。

 

⑤角浜駒踊り(洋野町)動画を見る

角浜駒踊り駒踊りは戦国時代の出陣の様子や戦場での騎馬戦の様子を舞踊化したものと伝えられ、のちに農耕馬の安全祈願、先祖や馬の霊を慰めるために踊られるようになったといわれる。角浜の駒踊りは鎌倉時代初期から旧南部領地域で伝承されていた南部駒踊りを、隣町の階上町(青森県三戸郡)から昭和17年に亡川口松之助氏が伝授を受けたもので、戦後は青年会を中心に活動が広まり、昭和53年に保存会が結成された。

角浜駒踊りは盂蘭盆(新暦8月)に供養の踊りとして依頼された家の庭先で踊るほか、神社の祭礼や結婚式などの祝いの席でも演じる。旗持ちを先頭に囃子方と駒を身につけた踊り方が続き、太鼓と駒は円陣をつくり、手平鉦と笛は外に並ぶ。踊り手は両手に手綱をとり調子をあわせるように鈴を鳴らし、「庭入り」から「引き返し駒」「休み駒」「乗り違い駒」「庭引き」までの演目を踊る。

 

⑥大澤大神楽(山田町)動画を見る

大澤大神楽大沢の魚賀波間(ながはま)神社の例大祭とどんと祭で奉納される。宝暦2年(1752)に大沢の長浜に社殿が移築された際に初めて奉納されたという。最も古い雄の獅子頭も宝暦2年に作られたという。演目は「通り」「かど打ち」「刺鳥舞」であり、大漁節の手踊りも演じる。「かど打ち」は「庭ふみ」「さんば」「四方がため」の3つに分かれている。「庭ふみ」は踊りはじめ、「さんば」は剣で悪魔を払うもの、「四方がため」は剣で四方の悪魔を払うものである。「刺鳥舞」は子どもが演じるものであり、「刺鳥舞」と「おおさんや」の2つに分かれている。

構成は太鼓4名、横笛2名、てんびら金4~5名、獅子舞6名、ささらすり3名。東日本大震災に伴う大津波によって太鼓、笛、装束が流失したが、破損した3つの獅子頭はいずれも修復されて大沢に戻ってきた。そして今年、大澤大神楽は6年ぶりに開催された例大祭で奉納された。

 

⑦大槌城山虎舞(大槌町)動画を見る

大槌城山虎舞虎舞は岩手県沿岸部を代表する郷土芸能であり、「虎は千里行って千里帰る」ということわざによっても語られる虎の習性にちなみ、漁民の航海安全を祈願するものである。虎をかたどった頭を被り、虎の柄を描いた幕の中に入って、囃子にあわせて舞う。

城山虎舞は虎舞を愛する大槌町内の若者有志が平成8年に結成した最も新しい団体であり、「遊び虎(矢車)」「跳ね虎」「笹喰み」のみならず、民謡の「大漁唄い込み」と「南部俵積み唄」を振り付けた甚句踊りも演じる。平成23年3月、東日本大震災によって会館・山車・道具・衣装などを失ったが、各種の支援を受けながら活動をいち早く再開して、復興を牽引するフロントランナーとして人々を力強く鼓舞してきた。平成25年9月、新調した山車の入魂式と落慶記念祝賀会を開催して意気が上がる。

 

出演への取り組み

 


大槌城山虎舞 会長 菊池忠彦さん

大槌城山虎舞 
会長 菊池忠彦さん

各所からの支援を受けながら1年半をかけて山車を新調することができました。支援で足りない部分は皆で負担して完成させました。その間はリアカーを改造した仮の山車を使って祭りに参加していましたが、やはり気分が乗らない感じでした。流されてしまった山車に大きな思い入れがあったので、新調した山車も以前の形を踏襲して再建できたことに皆喜んでいます。今回、入魂式を経て新調した山車で「いわて三陸鎮魂復興祭」に参加できるのはとても楽しみです。

私たちにとって虎舞は生活の一部であり、明日への活力。これがあるからここで頑張れます。この伝統芸能があってこそ地域の祭りができると考えています。

「いわて三陸鎮魂復興祭」には他の地域から大勢の人に見にきてもらい、この三陸地域には魅力的な伝統芸能がたくさんあるので、その魅力を全国にしっかりと発信していきたいと思います。

 

 


大澤大神楽
大澤大神楽 会長 鳥居一仁さん

大澤大神楽  
会長 鳥居一仁さん

子供たちにとっては、今回のような特別なところで神楽を演じるのは初めてなので、良い経験になると思います。地元のお祭りをきっかけに子供たちもだんだん元気になってきているので、今度の浄土ヶ浜で行われる復興祭では、大澤だけなく他の地域の皆様も元気になるように願いながら踊りたいと思います。

 

 


浦浜念仏剣舞
浦浜念仏剣舞 会長 古水力さん

浦浜念仏剣舞 
会長 古水 力さん

浦浜念仏剣舞は、念仏踊りですから亡くなった方への弔いの意味が強く、前半の部分は歌う中身のほとんどが南無阿弥陀仏ですが、後半は逆に阿修羅のように暴れ狂うという、静と動の部分を兼ね合わせいて、悲しみから立ち直り元気つける意味合いもあると思います。津波の被害でほとんどの道具を失ってしまったが、支援を受けてようやく道具をそろえることができました。まだ練習場所や道具の保管場所が無く、問題も残っています。今度の舞台では、鎮魂ということを今までやってきた通りに演じて、皆様にご覧いただきたいと思います。

 

 


山口太鼓
山口太鼓の会 会長 佐々木清さん

山口太鼓の会 
会長 佐々木清さん

山口太鼓の会にいる人は 誰かに頼まれてきている訳ではなく、自分が好きで来るんです。特に震災の後ですから、何かをしたいという気持ちを持っています。生かされた人間として、今回の復興祭のような舞台に立たせてもらえることは幸せです。震災で命を奪われた人たちの分まで、私の場合は太鼓を一生懸命に練習して、仲間たちと一緒に、いつでも元気と勇気を与えられるような舞台にしたいと思っています。浄土ヶ浜という特別な場所で行われる今回の舞台に、三陸地域の久慈から陸前高田まで多くの皆様に集まっていただけるということに、宮古市民として感謝の気持ちで一杯です。一日も早い復興を願って頑張りたいと思います。

 

 


桜舞太鼓
桜舞太鼓 会長 佐藤勇人さん

桜舞太鼓  
会長 佐藤勇人さん

私にとって桜舞太鼓は生活の一部です。今、太鼓があるから色々なことの糧になっています。太鼓をやるために仕事をして、太鼓があるからここにいて、ここに生きている……それだけです。自分たちは自分たちのできることを一生懸命やろう、技よりもリズムよりも何よりも、まず、その気持ちです。自分たちの思いをどれだけステージで表現できるかということ。毎回、それだけを考えています。とにかく応援してくれる人が一杯いるので、その期待に応えて頑張りたいと思います。

 

 

宮古市の伝統芸能一覧(宮古市指定無形民俗文化財)

文化財名称 (かな) 所在地 (かな) 指定年月日
牛伏念仏剣舞 うしふしねんぶつけんばい 牛伏 うしふし 平成6.11.21
田代念仏剣舞 たしろねんぶつけんばい 田代 たしろ 平成6.11.21
花輪鹿子踊 はなわししおどり 花輪 はなわ 平成6.11.21
末前神楽 すえまえかぐら 田老末前 たろうすえまえ 昭和59.1.23
畑鹿子踊躍 はたのししおどり 田老畑 たろうはた 昭和61.6.25
摂待七ツ物 せったいななつもの 田老摂待 たろうせったい 昭和61.6.25
和井内清水獅子踊 わいないしみずししおどり 和井内 わいない 平成8.4.15
和井内中郡念佛踊 わいないなかごおりねんぶつおどり
和井内 わいない 平成8.4.15
下刈谷大念仏剣舞 しもかりやだいねんぶつけんばい 刈谷 かりや 平成8.4.15
茂市鹿子踊 もいちししおどり 茂市 もいち 平成8.4.15
蟇目鹿子踊 ひきめししおどり 蟇目 ひきめ 平成8.4.15
小沢鹿子踊り こざわししおどり 小沢 こざわ 平成21.5.21
津軽石さんさ踊 つがるいしさんさおどり 津軽石 つがるいし 平成21.5.21
長沢剣舞 ながさわけんばい 北川目 きたかわめ 平成21.5.21
南川目さんさ踊り みなみかわめさんさおどり 南川目 みなみかわめ 平成21.5.21
末角神楽 まっかくかぐら 小国 おぐに 平成元12.12
早池峰神楽 はやちねがくら 江繁 えつなぎ 平成元12.12
田代念仏剣舞 たしろねんぶつけんばい 門真 かどま 平成元12.12
夏屋鹿踊 なつやしかおどり 川内 かわうち 平成元12.12
箱石鹿踊 はこいしししおどり 箱石 はこいし 平成元12.12
末角鹿踊 まっかくししおどり 小国 おぐに 平成元12.12
川井御戸入 かわいみといり 川井 かわい 平成元12.12
箱石こうきりこ はこいしこうきりこ 箱石 はこいし 平成元12.12
末角笠踊 まっかくかさおどり 小国 おくに 平成18.12.1
川内念佛剣舞 かわうちねんぶつけんばい 川内 かわうち 平成18.12.1
湯澤虎舞 ゆざわとらまい 小国 おぐに 平成20.1.31
川内鹿踊 かわうちししおどり 川内 かわうち 平成21.2.2
湯澤鹿踊 ゆざわししおどり 小国 おぐに 平成21.2.2
江繁剣舞 えつなぎけんばい 江繁 えつなぎ 平成21.9.1
川井豊年踊り かわいほうねんおどり 川井 かわい 平成21.9.1

 

 

宮古の伝統芸能

 

牛伏念仏剣舞うしふしねんぶつけんばい

建久元年(1190年)鎮西八郎為朝の三男為頼は、鎌倉幕府将軍源頼朝より閉伊・気仙の所領を安堵され、老木村根城に館を築いて、閉伊頼基と名乗りました。

頼基は父の菩提を弔うために華厳院を建立し、祖先や源氏一族・敵方平家などの戦没将士の霊を慰めるために、将士27人に踊らせ供養したのが牛伏剣舞の始まりと言われています。

踊り手は鉢巻に、閉伊氏ゆかりの家紋をつけた胴がけと鎧をきます。長刀・扇・太刀を演目によって持ちかえます。

毎年お盆には地区の各家をまわって死者や祖先の霊をなぐさめ、16日には華厳院で剣舞と七ツ踊りを供養として奉納しています。

主な演目…高太刀・城廻し・綾踊り

 

田代念仏剣舞たしろねんぶつけんばい

その昔、300年くらい前の飢饉で多くの餓死者が出たとき、代官所の前で田代の人々が剣舞を舞って供養をしたことに始まると言われています。その後、明治43年頃から盛んになり、毎年、盆の16日には田代地区の永光寺と久昌寺、亡くなった師匠の家で奉納された後、今年一年の新仏の家をまわって死者を供養し、祖先の霊をなぐさめています。

盆の門打ちでは「大念仏」と「湊入り」の時に仏前で2列になり、「施餓鬼拝み」と言って舞手が位牌に向かい、扇を水平に上下させながら「南無阿弥陀仏」と唱えます。

演目…大念仏・高太刀・綾踊り・棒剣舞・湊入り・城回し

 

花輪鹿子踊はなわししおどり

根城館に居を構えた閉伊頼基の家臣、花輪次郎なる者が芸を好んで旅をし、越後から習い覚えたのが始まりと言われています。

寛永8年(1631)には、花輪殿様で知られる南部29代重信公が、花輪より盛岡に召される時の御供につき、盛岡城の御前で披露して南部家の九曜紋と向鶴の紋の使用を許されたといわれています。また宝暦年間(1750-1763) には、花輪に生まれた踊りの名手伊藤佐吉がさらに工夫を重ねて格調なる踊りに完成させたといわれています。

鹿子の踊り手は、一番太夫から三番太夫、雌鹿子、おさえ2人、側鹿子6人の12人、太鼓は2・3人で構成されます。

演目…庭廻り・一番庭・二番庭・三番庭・四番庭・笹ばみ・牝獅子狂い・綱懸り・柱懸り

 

末前神楽すえまえかぐら

元禄13(1700年)、末前の修験一明院が神楽を村内に伝授し、鎮守熊野神社、山口の黒森神社に奉納して、五穀豊穣・無病息災・天下泰平を祈願したのが始まりとされています。

地区内に神楽廻村の記録や神楽本が伝わっており、末前の神楽衆は、国重要無形民俗文化財となった黒森神楽の中心メンバーとして有能な舞手を輩出してきました。

主な演目…清祓・御神楽・山の神舞・恵比寿舞・七つ物・勢剣

 

畑鹿子踊躍はたのししおどり

由来は不明ですが、『鹿子踊躍巻』が伝わっており、慶長19年(1614年)に山城国の庄太夫が書いた由来を小本中里(岩泉町)の佐々木栄蔵が写したものになります。

昔は、盆になると田老の水沢や摂待、岩泉町小本などに頼まれて宿で剣舞と鹿子踊りを一晩踊って供養したといわれています。初めに宿の庭に位牌を出して剣舞の大念仏で仏様を供養し、鹿子踊りを元庭からヒキハまで踊ります。中入り後に、剣舞の扇踊り・高館・綾踊り、鹿子のかかしなどをやったとされます。また、小本の八幡神社の例祭では神輿の御供をして、町で門打ちもしたといわれています。

演目…(剣舞)大念仏・高館・綾剣舞・扇踊り・湊入り

(鹿子踊)元庭・一番庭・二番庭・三番庭・かかし・大立入り・小立入り・入りちがい・宿踊り

 

摂待七ツ物せったいななつもの

摂待七つ物は、天正15年(1587年)に摂待を知行した久慈氏が小沼神社を創建したことに始まると言われています。神社の祭礼で七ツ物を舞い、五穀豊穣・無病息災や地域の繁栄を祈願してきました。

袖柄の襦袢に襷をかけ、袴をはいて帯としごきを前で結びます。二人一組となり、採り物に応じて、先打ち(棒)・ヤッパライ(棒)・ナギナタ(長刀)・キギ(杵)・太刀・扇(扇と錫杖)・桶かつぎ(水桶)の七組が、鉢巻や烏帽子・鳥兜をかぶります。

円陣または隊列を組み、声を合せて躍動するところから、踊り手を「跳ね人」と呼んでいます。

演目…道具とり・横ばね・ちらし・組ちらし・鳥居がかり・道具納め

 

和井内清水獅子踊わいないしみずししおどり

昔、マタギの万三郎が手下48人を連れてこの地で狩猟をしましたが、獲物もなく途方にくれて1本の木の根元で休み、いつの間にか寝入ると、目の前に白山権現が現れ、そのまわりで数頭の青獅子がのどかに戯れていました。青獅子を見守る白山権現は、「人間はいかに生きるためとはいえ、毎日殺生をくり返している。たとえ獣であっても魂もあり、死んだ獣には霊もあるのに、それを慰霊もしないお前らには獲物は与えない」と言いました。それから、万三郎は手下と共に青獅子の遊び戯れる姿を踊りにし、太鼓と笛・鐘で囃して獣の霊を慰め、野山の豊猟と五穀豊穣、国家安泰、無病息災を祈願したと言われています。この時から、盆の14日と16日に宝鏡院の境内で、清水獅子踊りとして毎年踊るようになりました。

主な演目…庭廻し・太夫狂い・花狂い・一番庭・二番庭・三番庭

 

和井内中郡念佛踊わいないなかごおりねんぶつおどり

この踊りの発祥は、武蔵の国吉田少将の御子息、梅若丸の入滅を悲しんだ人々の念仏踊りに由来すると言われていますが、いつ頃から伝えられたのかは不明です。用具の一つに文化11年(1814年)の文字が見られます。

袖柄の襦袢に襷をかけ、袴に鎧を着ます。長刀・太刀・扇を演目によって持ちかえ、鉢巻か鳥兜をかぶります。太鼓と笛の両脇にろうそくを灯したキリコが立ちます。

毎年お盆には御寺(宝鏡院)の庭で踊り、新仏の墓で回向をあげて死者の霊をなぐさめ供養しています。

演目…念仏踊り・城廻し・二十三・高館

 

下刈屋大念佛剣舞しもかりやだいねんぶつけんばい

今から約2百年ほど前に刈屋地区の高鼻家と夏屋家の先祖が伝えたのが始まりと言われています。また、川井村から伝えられたという話しもあるが、詳細は不明です。

剣舞を踊る前に新発意という役が述べる口上で、人買い商人に拐されて隅田川のほとりで病死した梅若丸を弔うために、人々が集まって大念仏を催した回向踊りが剣舞の始まりといわれています。

盆には、庭元である高鼻家と夏屋家、高昌院で回向を行い、15日に地区で供養の踊りを行っています。8人の踊り手が長刀・太刀・綾・扇を演目によって持ちかえ、鉢巻や鳥兜をかぶります。太鼓と笛の両脇に太鼓と水桶を模したキリコが立ちます。

演目…大念仏・高館・庭ならし・山の神くづし・扇剣舞・太刀剣舞・綾踊り・城まわし

 

茂市鹿子踊もいちししおどり

鎌倉時代、源為朝の三男と言われる閉伊頼基が、幕府将軍源頼朝より閉伊地方を安堵され根城館を築きました。頼基の重臣七人のうちの一人、茂市氏が鹿子踊りを伝え今日まで伝承されたと言われています。鹿を模した頭に兜の鍬形をつけ、三段(赤・緑・白)の幕を激しく振りながら跳ねます。太鼓は、編み笠をかぶり、浴衣の両袖をたすきでまくり上げて肘までの長い手甲をつけます。

盆の供養踊りとして、地元の熊野神社祭典で地域をまわって踊り、最後に境内で踊りを奉納しています。産土神・灯篭などをほめて、回向の唄を歌い、京の都を思わせる情緒がただよいます。

主な演目…後庭・太夫踊り・女鹿子狂い・キリ

 

蟇目鹿子踊ひきめししおどり

蟇目鹿子踊りの始まりや由来は定かではありませんが、かつて語られた口上によると、神代の昔16頭の鹿がそろって歌い遊び、神々と共に踊り楽しんだのが鹿子踊りの始まりといわれています。その後、7代孝霊こうれい天皇の御代に、大和国やまとのくに春日里かすがのさと清原花園守きよはらはなぞののかみと言う信心深い人のもとに、春日大明神の使者である童子が現れて鹿子踊りを詳しく教え、山里から浜辺に至るまでこの習わしが広まったといわれています。

軽快な太鼓と笛の拍子にのり、勇壮で躍動感あふれる踊りで、右踊りと左踊りに分かれて幕を横に振る特徴があります。毎年、盆の14日には地元蟇目地区で踊り、祖先の霊を慰めています。

主な演目…庭廻にわまわし(前庭まえにわ)・三頭みつぐるい・雌鹿子めんじしぐるい・きり後庭あとにわ

 

小沢獅子こざわしし踊り

平泉を逃れた源義経が、北方に落ち延びる途中、黒森神社に参籠し前途の平穏を祈って大般若経を書写したと伝えられています。小沢の鹿子踊りが義経一行のつれづれを慰めたところ、義経は非常に喜び、踊りの所作や調べについて様ざまな助言をなしたので、小沢鹿子踊りは一段と洗練され、勇壮華麗なものとなって今日に伝承されたと言われます。

鹿を模した頭に兜の鍬形をつけ、幕を振りながら跳ね踊ります。

7月の大杉神社例祭、9月の横山八幡宮例祭で神輿に御供し、神輿の休み場となる神社などで庭踊りを披露しています。

主な演目…前庭・女獅子狂い・後庭

 

津軽石つがるいしさんさ踊り

津軽石さんさ踊りは、海産物を商った五十集いさば衆が寛永年間(1624-43)に盛岡のさんさ踊りを習い覚えて伝わったとされています。寛政年間(1789-1800)の頃より本格的に踊られ、大正時代に舘下万太氏が津軽石新町に伝えてますます盛んになり、現在の形態になりました。

毎年、津軽石稲荷神社の祭典で神輿の御供をした後、地区の家をまわって門打ちを行います。

花笠をかぶり、五十集を運んだ荷車を表わす車輪の柄の浴衣を着て右袖を脱ぎ、腰から3本のしごき(赤・青・黄)を垂らします。基本の隊形は輪踊りで、太鼓を先頭に笛・踊り手の順に進んで、輪になり、「サッコラ、コラサノヤッセ」のかけ声と共に踊ります。

演目…庭踏み、一番から十番の10曲

 

長沢剣舞ながさわけんばい

文政9年(1826年)に長沢一揆の首謀者として処刑された北川目出身の内舘元右衛門を剣舞で供養したことに始まるといわれています。それ以来旧暦6月9日には、元右衛門を農神として祀る長元神社の祭典で舞を奉納してきたとされます。また、謡曲「隅田川」の梅若丸の菩提供養を由来とする口上があります。

長沢剣舞は、鎧をつけずに浴衣を脱いで垂らす(脱ぎ垂れ)衣装で、「拝、南無阿弥陀仏」と念仏を歌いながら踊り、7庭22曲を伝承しています。花輪中学校での伝承にも取り組み、後継者の育成に努めています。

演目…宿入・高館・十三・二十三・幽霊慰み(ゆるぎだち)・綾踊・扇踊・オオヒキハ

 

南川目みなみかわめさんさ踊り

明治20年ごろ川井村岡村地区から嫁いで来た方が「川井さんさ」を伝えたのが始まりとされます。地元の霊場十三仏の祭りに地区をあげて奉納し、盆には各家々を回って庭先で祖先の供養に三晩も踊ったと言われています。

踊り手は花笠をかぶり、色柄袖の襦袢に浴衣を着て、襷をかけ右袖を脱ぎます。帯の上に色違いのしごきを左右に垂らします。男性の太鼓は、袴をはき、太鼓を叩きながら活発に跳ねます。

「キタコラサッサー」のかけ声と共に始まり、素朴で力強く躍動感ある踊りで、五穀豊穣や家内安全を祈りながら踊り伝えてきました。

横山八幡宮例大祭の際に神輿の御供をし、商店街を門打ちします。

演目…御礼講・庭まわりの他7曲。

 

末角神楽まっかくかぐら

末角神楽は、文政2年(1819年)に早池峰神社の氏子たちの願いにより、小国集落の神道豊坂家に伝えられた神楽で、以来、地域の人々によって舞い継がれ、現在では1月の火祭りや8月の賀茂神社の祭礼などで奉納されています。

 

早池峰神楽はやちねがくら

宮古市の内陸部に位置し、霊峰早池峰山の東麓にある江繋集落に継承される神楽で、古くから早池峰山に参詣する人々の案内役を務めた修験者たちが伝えたものと言われています。黒森神楽と同様に、演目の締めくくりに権現舞を奉ずる山伏神楽系統もので、悪疫退散と安泰を祈ります。

 

夏屋鹿踊なつやしかおどり

夏屋鹿踊りはおよそ460年の歴史を有するもので、伝書によれば天文11年5月(1542年)、大和国春日の人清原形部助が巻物を持参してこの地の袴田保福に伝えたことが明記されています。「花園の巻」と称する踊りがそれです。平成2年1月には、夏屋鹿踊りの継承保存と地域振興への貢献を目的に、川内地域の全戸約50戸が加入し夏屋郷土芸能保存会を設立しました。

 

箱石鹿踊はこいしししおどり

箱石鹿踊は、安政4年(1857年)の年号が書かれた巻物が残っており、鈴久名鹿踊から伝えられたといわれています。鹿の装束の背中には「南無阿弥陀仏」の文字が染め抜かれ、仏供養や五穀豊穣への祈りを込めて踊られます。

 

末角鹿踊まっかくししおどり

末角鹿踊は、宮古市川井地域小国に継承される芸能で、「一本しし」と「かながらしし」の二種類があり、泥の木からひいた「かながら」を靡かせて踊るのが特徴です。明治9年、当時最も正統といわれた江繋村尻石鹿踊りより伝授をうけ、以降、盆行事のひとつとして当時そのままの姿を保持しながら今日まで演じられています。

 

川井御戸入かわいみといり

川井御戸入りは盆に演じられる芸能で、その歴史は鎌倉時代にまでさかのぼるといわれています。川井地域の中心部川井集落では盆を迎えると御戸入が演じられ、山伏が先達となって神前に祈りを捧げ、手平鉦と太鼓の音が響くなか、勇壮な踊りが踊られます。

 

箱石はこいしこうきりこ

箱石こうきりこは風流踊りの1種で、その起源には諸説ありますが、加賀の医師が箱石の地に長く逗留して、京都の祇園祭に出る踊として伝えたといわれています。「こきりこ」は富山県五箇山地方の古謡「こきりこ唄」でも使われる、二本の竹の棒を打ち鳴らす楽器をいい、中世から近世初頭に法下師などの手によって各地に伝播したとされます。箱石こうきりこもその一種で、少女たち十数人が、こきりこを打ち鳴らしながら円陣を組んで優美な踊りを踊ります。

 

末角笠踊まっかくかさおどり

末角笠踊は、宮古市川井地域小国に継承される芸能で、太刀、長刀を持った勇壮な踊り手の後に、大きい花笠を被った踊り手が続きます。仏供養のために盆に踊られてきた芸能で、かつては小国の大仁田でも踊られていましたが、現在は小国集落のみに継承されています。

 

川内念佛剣舞かわうちねんぶつけんばい

川内念仏剣舞は、言い伝えによれば、盛岡の簗川方面の踊りが明治期になってこの地に伝えられたものとされます。演目によって刀、長刀を持ちかえ、肩の鎧を翻しながら軽快に踊ります。主に盆の仏供養のため、民家の庭や寺の境内で踊られてきました。

 

湯澤虎舞ゆざわとらまい

虎舞は、主に岩手県の三陸沿岸地方に広く伝わる芸能ですが、宮古市の内陸部に位置する小国集落にも残っています。小国地区湯沢は、内陸にありながらも峠を越えれば沿岸の大槌町へとつながる場所にあり、古くから沿岸地域との交流が盛んでした。弘化年間(1844年~1847年)に、大槌からこの地に嫁いだ女性が古里の虎舞を伝えたのが始まりと言われています。以来、早池峰新山神社の祭礼などで奉納されています。

 

川内鹿踊かわうちししおどり

川内鹿踊は、安永10年(1781年)頃に、仙台方面の鹿踊を習い覚えた人が、川内集落の人々に教えたのがその始まりと言われています。

 

湯澤鹿踊ゆざわししおどり

宮古市の川井地域に継承される鹿踊りは、いずれも体を覆う幕を持って踊る「幕踊系」と呼ばれるものに分類されます。湯澤鹿踊は、嘉永2年(1849年)に始められたものとされ、明治期になって茂市の人が伝えた「茂市じし」が演目に加わりました。宮古市川井地域小国字上湯沢に継承されるもので、盆に集落の寺院境内などで披露されます。

 

江繁剣舞えつなぎけんばい

江繋剣舞は、宮古市川井地域江繋集落で近代に入ってから演じられるようになったもので、「長刀の舞」と「刀の舞」が継承されています。隣接する桐内集落で演じられていた桐内剣舞から伝授されたものといわれています。

 

川井豊年踊りかわいほうねんおどり

川井豊年踊りは、地域の祝い事や盆に踊られてきたもので、二十人ほどの女性たちが軽快な太鼓のリズムにあわせて踊ります。演目には、稲穂と鎌を手にして踊る「稲刈り」と、両手に花笠を持って踊る「豊年祝い」があります。

 

 

 

いわて三陸の伝統芸能

 

■花輪鹿子踊り(宮古市)

鎌倉時代、根城舘ねじょうだてに居を構えた閉伊頼基へいよりもとの家臣で花輪次郎なる者が芸を好んで旅をし、越後から習い覚えたのが始まりと言われる。

寛永8年(1631)には、花輪殿様として知られる盛岡藩主重信しげのぶ公が花輪より盛岡に召される時の御供おともにつき、盛岡城で鹿踊を披露して南部家の家紋(九曜紋くようもんと向い鶴)の使用を許されたと言われる。また、宝暦年間(1751-1763)には、花輪に生まれた踊りの名手伊藤佐吉がさらに工夫を重ねて格調ある踊りに完成させたと言われる。

鹿子の踊り手は、一番太夫から三番太夫、雌鹿子(めじし、おさえ2人、側鹿子がわじし6人の12人、太鼓は2・3人で構成される。

 

■鵜鳥神楽(普代村)

鵜鳥神楽うのとりかぐらは、鵜鳥神社の獅子頭である権現様を奉じて演じられるもので、毎年1月から3月にかけ、1年おきに三陸沿岸部に点在する「宿」を訪ねて神楽を演じる「巡行」を行ってきた。沿岸部に暮らす人々は巡行を心待ちにし、神楽は喜びと畏敬の念をもって迎えられて、今日まで連綿と続けられてきた。しかし、東日本大震災がもたらした壊滅的な被害によって宿の多くが失われた。

神楽は、海上の安全と大漁を祈願する「えびす信仰」と結びつけられて親しまれてきた「恵比寿舞」をはじめ53の演目を伝承している。

 

■陸中弁天虎舞(大槌町)

陸中海岸国立公園の中心部に位置する「吉里吉里国=大槌」の代表的な芸能が虎舞である。虎が奉納舞踊の対象となったのは、近松の『国姓爺合戦』の中の「和藤内の虎退治」に由来するとされ、往時の豪商・吉里吉里善兵衛は、江戸や上方に三陸の海産物を輸出すると同時に同地の文化を三陸に輸入し、和藤内の虎退治は善兵衛の三百石船「虎丸」の水夫達により舞踊化されてこの地に定着した。

時は過ぎ、昭和49年、芸能の発展の気概に燃える郷土の若者たちと共に岡本大作氏(現、陸中弁天虎舞 宗家)が「赤浜虎舞」を結成。昭和56年、井上ひさし氏が『吉里吉里人』を著し、独立の気概に燃える大槌「吉里吉里国」の若人達によって、大槌湾に浮かぶ蓬来島に祭られる弁天神社に和藤内の大神宮のお礼と善兵衛ゆかりの品が納められ、これを機に「陸中弁天虎舞りくちゅうべんてんとらまい」と改名し今日に至る。

 

■南部藩壽松院年行司支配太神楽(釜石市)

釜石市只越町に拠点を置く南部藩壽松院なんぶはんじゅしょういん年行司支配太神楽ねんぎょうじしはいだいかぐらは、元禄12年(1699)に釜石の守護神である尾崎大明神の遥拝所が建立される際、盛岡藩の修験を地域単位で管理する年行事のうち閉伊郡を担当していた壽松院によって任ぜられて、御神体の御供として奉納されたといわれる。

年行司支配太神楽は、今でも「釜石三社」と称される釜石総鎮守八雲神社・尾崎神社・綿津見神社の祭礼では、守護役として御神体が渡御する際に最前列に位置して露払いを勤めるほか、尾崎神社の本宮から里宮に御神体を迎える曳船祭でも、御神楽船を仕立て、御神体が鎮座する御召船を先導して家々の悪魔祓いを行っている。歴史に支えられた由緒と格式を誇る伝統芸能である。

 

■うごく七夕まつり松原祭組(陸前高田市)

陸前高田市高田町に伝わるうごく七夕まつりは、山車にさまざまな七夕飾りを施して、お囃子を奏でながら町内を練り歩くものである。先祖を供養する鎮魂の行事として伝わり、毎年8月7日に12の地区が意匠を凝らした山車を出した。東日本大震災によって甚大な被害を受けたが、昨年は12台の山車が復活して、鎮魂と復興を祈った。

松原祭組は12あった祭組の1つで、松原は海寄りの地区だったため、震災で壊滅的な被害を受けたが、その中で若いメンバーが中心となり、多くの人々の支援を得て昨年に山車を新調し、祭に本格的に参戦することができ、平成26年は嵩上げ前最後の運行であった。

 

■崎浜念仏剣舞(大船渡市)

念仏剣舞の由来は、今から700年前、源平の壇ノ浦の合戦の頃に遡る。義経が平家一門を壇ノ浦合戦で滅ぼしてから4年後の1189年、追われる者の身となって平泉の藤原氏をたよって身を寄せていた義経は、とうとう衣川の館で自害して果てた。これを伝え聞いた中尊寺一山の僧侶たちは、瀬戸内の海に消えた平氏を弔い、そして平泉の地にあえなく果てた義経の霊を和らげ弔うために、鎧、武者装束を身につけて念仏を唱えつつ踊ったのが始まりとされる。以降、亡き人々の霊を弔う盆の行事として民間に普及し継承されてきた。

崎浜念仏剣舞さきはまねんぶつけんばいは、正称を「白浜山正源寺念仏剣舞」といい、大船渡市三陸町の白浜山正源寺を依拠して250年~300年前から伝承されている鎮魂の舞である。

 

■愛宕青年会八木節(山田町)

八木節は、江戸時代に日光例幣使街道沿いの八木宿(現・栃木県足利市)で行われていた盆踊りが発祥とされる。瞽女唄として各地に伝わり、江戸時代の五大流行唄の筆頭と言われた「新保広大寺節」が元唄となり上州で土着化し、やがてレコードの普及により全国的な民謡として親しまれるに至った。

愛宕の八木節は、一説には江戸時代に台風で山田湾に避難した船の乗組員が上州の者で、山田の旧愛宕地区の人々と酒を酌み交わした際に踊りを披露して伝授されたとも言われ、また昭和の初年頃に上州の出身者によって山田町の旧愛宕地区に伝えられたともいう。

現在では山田町を代表する芸能として、毎年の「山田祭り」で神輿や虎舞などと共に賑やかな踊りが披露されている。

 

■鵜住居虎舞(釜石市)

鵜住居虎舞うのすまいとらまいは江戸時代中ごろ、盛岡市から釜石市に伝わったものが、さらに鵜住居地区に伝わったといわれている。「鵜住神社」御神体のお供役として「鵜住居青年会」がこの虎舞を継承している。

囃子は太神楽の影響があるといわれ、踊り方共に優雅が雰囲気で舞われ、その様子から雌虎といわれている。「虎は千里行って千里帰る」といわれることから、航海と海の操業の安全を祈願し古くから祝いの席でも踊られている。

 

■ナニャドヤラ(洋野町)

ナニャドヤラとは、盆に踊られる唄の一種で、「ナニャドヤラ ニャニャトナサレノニャドヤラ」という意味不明の歌詞を元唄とする。胸に締太鼓を付けた男性が先頭にたち、踊りながら太鼓を叩く。

洋野町種市で毎年盛大に催される種市夏祭りでは、山車や神輿パレードなどとともに、ナニャドニラ流し踊りが繰り広げられる。唄の歌詞や踊りの振りは自由きままで、替え歌もあり、踊りも多様である。

 

■生平駒踊り(久慈市)

写真提供:岩手県民俗芸能団体協議会

久慈の駒踊りは、昭和45年に開催された岩手国体の折に、国体の郷土芸能部門に出演するため、生平おいたいらの代表が盛岡に出向き駒踊りを習得し、その後この地で普及していったものである。もともと、駒踊りは馬枠を腰につけた踊り手が輪をつくり、太鼓や鉦、笛の囃子に合わせて踊るもので、馬が生活の一部であった南部地方の農民の暮らしのなかで育まれてきた。

 

■大宮神楽(田野畑村)

写真提供:岩手県民俗芸能団体協議会

大宮神楽は田野畑村羅賀地区の鎮守である大宮神社の6月5日の例祭で奉納される神楽で、大宮権現の獅子頭をご神体に見立て、法螺貝を吹きながら舞を舞い、その後氏子の健康と厄払いを願って村内を廻り祈祷する。田野畑村の羽黒派の山伏によって、宮古の黒森神楽から伝えられたといわれる。およそ50の演目を継承しており、その芸風はいずれも古態を保ち、きわめて貴重な芸能である。

かつては例祭の折に、神輿の渡御などとともに豊漁を祈願する曳き舟祭りが営まれたが、現在は例祭の日とは別に夏に行われ、大宮神楽の上演をはじめとする芸能祭や花火大会などが盛り込まれて多くの観光客を迎えている。

 

■臼澤鹿子踊(大槌町)

写真提供:岩手県民俗芸能団体協議会

江戸期の天明年間(1781~1785年)、小槌村に住む者が茨城の鹿島神社を訪れた際に「房州踊り」と出会い、それを習ってこの地に持ち帰り、小槌神社への鰐口奉納を祝い境内で踊ったことが始まりで、以降この地に普及したとされる。

戦前までは小槌神社の宵宮祭で奉納されてきたが、戦後には大槌、安渡地区の祭礼とともに「大槌祭」として統合され、現在では毎年9月の大槌祭で奉納されている。古くからこの地域で演じられていた念仏踊りと房州踊りが融合したものといわれ、ドロノキから作られた「カンナガラ」と呼ばれる鹿子頭のたてがみにも似た美しい飾りが特徴的である。

 

■川原鎧剣舞(大船渡市)

剣舞は、壇ノ浦で滅亡した平家の一門が武者の亡霊となって源義経一行を苦しめた時、武蔵坊弁慶が経巻を取り出し、その経分を高らかに読み上げ、ついに亡霊を退散させ浄仏させたという伝説を演舞化したものといわれる。川原鎧剣舞は、盆に寺院や初盆を迎える家々を回り、神仏に回向するもので、江戸時代末期から地域の青年有志により踊り継がれてきた。

綾剣舞あやけんばい」とも言われ、織りなす綾の如く鮮やかな踊りの所作が特徴である。

 

■権現様(大船渡市)

権現様は、山伏神楽の演目である「権現舞」から派生したもので、権現と称する獅子頭に神を勧請し、家々を廻って悪魔払いや火伏せなどの祈祷を行い、また余興として劇的な舞曲を演じる、三陸沿岸に特徴的な神事芸能である。

大船渡市各地には数々の権現様がいまも生活に根差して継承されており、下船渡・宮ノ前地区に伝承される権現様は、月山神社の大晦日に年越しで奉納され、翌日の元日は早朝から町内およそ400戸の家々を廻り、家の庭や玄関で悪魔祓いを行う古来からの風習をいまに伝えている。

 

■広田御祝い(陸前高田市)

広田御祝いは、陸前高田市街地の東、太平洋に突き出た広田半島と呼ばれる広田地区に漁業に携わる人々によって古くから唄い継がれてきた祝い唄。地区の女性が、踊り、唄と太鼓の演奏を行うもので、結婚式や年祝、新築祝など集落の慶事に唄い踊られてきた。

東日本大震災では、広田半島は広田湾と太平洋の両側から押し寄せた津波に襲われ、一時は孤立するなど甚大な被害を受けた。御祝いの上演に必要な舟や太鼓台、衣装等はすべて流失し、継承活動がきわめて困難な状況にあったが、平成26年に国の支援等により道具類と衣装を新調することができ、陸前髙田市の大工左官伝承館で震災以来となる復活上演を果たした。